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ただの読み物

河辺

拝啓

おげんきですか? 僕は元気です。

はじめに

壁 AdventCalendarが前回あったのは、 2015年である。

adventar.org

もはや知る人ぞ知らなくて良い、伝説となった(伝説のまま誰にも語り継がれず、そのまま闇に葬ったほうがよさそう)壁 Advent Calendarだが、 去年は「今年は?」「え、今年はやらないんですか?」「そんな馬鹿な」みたいに本人をつっついても全く本人が動かなかった。

そうして、世界のすべてが「なかったことにしたかった」壁アドベントカレンダー、それが

ということで帰ってきた。

何が言いたいかって、特に言いたいことはないよ。

本文

壁とは一体何かを考える。 物理的、あるいは精神的、抽象具体、様々な形式を用いて壁を認識することができるだろう。 壁、それは一人ひとりの解釈による部分が多く、また世界そのものは世界中の生命体の認識の最大公約数、あるいは認識によるだと定義したとして、その世界における壁とはつまり全ての生命体が「壁」と認識するもの、それはつまり何なのだろうかと思考するに、それはすなわち壁、なのではないか。壁という概念、壁という認識、壁という虚像に虚構に抽象に具体が混じり合ってもまだ壁と考えうる壁、それはすなわち壁、壁ってナニか?という疑問に対して招聘するは壁という認識そのもの、思考において壁を壁と認識した時に壁は初めて壁となり、そうでないものは壁とならず壁は壁たり得ないためそれは壁でなく、では元々何だったのかというと壁ではないなにかでしかなく、つまり僕達が今壁と考えうるものは全て壁であり、思考が思考する為の土台、壁が壁たりうる為の壁は、すなわち個々人の認識、いや、全ての思考する某の認識に依って壁が壁として起立するのである。壁とは本来何を指し示すかなどこの世界においては一切の意味はなく、壁が壁として認識される思考される事そのものに意味があり、壁が実際に、この言葉は間違っておりつまり、壁が「壁」として物理的に、つまりこの地球上に壁としてラベル付された形で壁があってもそれが全ての思考する某によって、壁として認識されなければそれは壁ではなくただのナニかに成り下がるわけだが、しかしであるならばそこにある壁というラベルは一体何なのか、この答えを出すためにも壁という概念についてより深く、より洗練された考察を導き出し演繹し、壁が壁たりうる為の思考する某の共通項を導き出すこと、その為の問いを今我々は壁として認識してしまっているがため、この概念の坩堝に対して何を振りかざしたところで思考の壁を超越し、壁を壁として俯瞰的に、概念的にあるいはよりもっと高度な次元から課題という壁を認識し、いや、そもそも次元という壁を認識してしまっている時点で壁を真に俯瞰して、客観して観察することは出来ないのではないだろうかという思考もまた、一つの壁ではないだろうかと考えうるに、世界の万物は、あるいは思考する某そのものもまた壁なのではないかと考えうるわけだ。

おわりに

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